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■ 詩
吉行さんが詩を書き出したのは20歳。
萩原朔太郎のエッセイで自分の特性と自分の場所を確認した吉行さんは、まずは小説を書き、 次に時間をおいて詩を書いている。
理由は、「朔太郎には心酔したが、当時文学少年のあいだに氾濫していた朔太郎ばりの詩にたいする嫌悪がはげしかったので、 書き出すまでに時間がかかった。」(『私の文学放浪』)からだとか。
小説に移行してからも、初めの作品をわざわざ「詩の領域」として区別していた。
好きな詩人は、中原中也や田中冬二。
そういえば、吉行さんは「死んだやつは死なしておけ おれはこれから朝飯だ」という詩を常に胸に持ち合わせていた。
この詩はアルバイトをしていた雑誌社にいた女性の作品「死んだやつは死なしておけ」に、吉行さんが「おれはこれから朝飯だ」を つけて記憶していた詩。
■ 死
生命を維持するためのわずかな金をかせぐためエラスムス流の生き方を身につけようとしたのは戦後のことで、戦時中は私は まことに初心で潔癖であった。そして、時代の風潮に反撥することに、いわば、情熱を燃やしていた。
そして、その情熱は、酬われるところなく死へ至る道へ向けられたものであった。なぜならば、戦は敵が本土に上陸して メチャメチャになって、はじめて終わるだろう、もしそれまで生きのびているにしても、そうなったら思い切りよく死んでやろう、 と私は考えていたからだ。
『軽薄のすすめ』より
虎は死して皮を残し、人は死して名を残す。保険に入っていれば金を残す。
これは・・・。
■ 塩煎餅
吉行さんの好物。
総入歯に近い状態だった吉行さんは、入歯の間に煎餅の破片が入り込んで歯茎を傷つけることから、そう頻繁には 食べていなかったようだ。
が、和田芳恵氏から贈られた塩煎餅1箱を数日のうちに食べてしまったというから・・・よほどおいしかったのでしょうか。
■ 自殺
死んだら楽になると思ったことはあるが、死のうと思ったことはない。
■ 事実
溺死者はいったん水底に沈んで、何日かして溺死体として水面に浮んでくる。事実もいったん心の奥へ沈んで、何年かして
浮び上ってきたとき、はじめて表現してよいものになる。分り切ったことだが、事実と真実とは違う。
『犬が育てた猫』より
■ 辞書
空襲で焼いてから10年ほどの間(昭和30年まで)は辞書を使わずにすましていたらしい吉行さん。
知っていることばだけを 使って文章を書くというのは辞書を持ってからも変わらなく、辞書の使い道は、ときどき意味の確認をするだけだったようだ。
いわく「漢字は昭和二十五年五月までに頭に入っていた文字しか使わない」
といっても、これは日本語関係の辞書についてのことで、英語の辞書は翻訳作業の際には睨めっこ状態だったようだ。
■ 私小説
私は「私小説」を書かないから、複雑な手順でつくり変えてあるが、(以下略)。
『日日すれすれ』より
■ 静岡高校(旧制)
当時、1学年は計200人で、うちわけは文科3クラス、理科2クラスであった。
寮が6つあり、1年生はこの寮のいずれかに入って寮生活をすることになっていた。
校舎は賤機山(しずはたやま)の麓にあった。
東京より物資が豊かだったこの静岡で、1年生のときは、ほとんど毎日のように出かけて映画を見たり酒を飲んだりしていたという。
ちなみに、2年生のはじめにニセの診断書を提出して1年間休学する。
生徒同士で行った投票の結果、「最も街へ出る人」という称号も貰っている。
「静岡市精密大地図」という、酒場などの要所のみで構成されていたといってもいいくらいの地図を作成したことも。
見てみたいですね。
■ 自尊心
虚栄心と微妙につながったもの。
自尊心を持つ必要のないときに、それにこだわると虚栄になることが多い。
未熟なときには、 自尊心と虚栄心のあいだで判断をあやまることがある、という。
■ 時代小説
初めての時代小説は、1962年11月から連載された『雨か日和か』のちに改題された『鼠小僧次郎吉』。
その後、『好色五人女』や 『好色一代男』の現代語訳を手がけることになる。
■ 失態
吉行さんと失態とは繋がりがないような気もするが、きゃっと叫んでろくろ首のようなものではなく、れっきとした失態(?)をも 犯している。
それは、新太陽社での編集記者だった頃のこと、28歳の吉行さんが三橋一夫の家に原稿を取りにいったはいいが、帰り道にその原稿を 紛失してしまった。
酒宴の後、電車の中で原稿を読んだ。
電車から降りて手元を見ると、握っていたはずの原稿20枚のうち、外側の2枚を 残して消えていた。
三橋氏は怒ることもなく書き直してくれ、そのことで吉行さんはさらなる反省をし、作家になってからは原稿の受け渡しに 慎重になった、という。
安岡章太郎氏にいわせれば、「秀才だけど、どこか抜けていて突然とんでもない失態をしでかす。
が、そのおかげで、嫌味な秀才と いうことで憎まれなかったのかもしれない」とのことなので、やはりさすが吉行さんですな。
■ 時点
吉行さんが警戒して使わないようにしていることば。
便利な言葉なのだが、左翼系の人の一オクターブ高い口調の演説の中に出てきそうな感じが厭なのである。右左にかかわらず、 オクターブの高い口調は、戦争中の軍国主義をおもい出すので、生理的に受け付けない。
『樹に千びきの毛蟲』より
■ 脂肪
自らの身体には余分な贅肉を蓄えなかった吉行さん。
が、脂肪はというと、かなりの量をその体内に貯めていた。
軽いタイプのものでは、毛穴から出る脂肪。爪ではさみこむと、毛穴から糸のような脂肪がちゅるちゅると出てくる。
通好み(?)の タイプのものでは、その名の通り脂肪の塊。
胸を切り開いてみると、鶏の卵大の脂肪がせり出てきて、その脂肪に小さな脂肪達が つながってついていたという。
これは病みつきになるらしく、はじめは気味悪がっていた医者や看護婦も、何度目かの手術では 面白がっていたとか。
脂肪の塊といえば、少年・吉行を虜にした小説『脂肪の塊』を連想させる。このことについては次に。
■ 『脂肪の塊』
吉行さんが中学5年生の頃に読んだ、モーパッサンの小説。
今度読み返してみて、やはり手の内が見えてしまうところがあるが、よく出来た小説だと感心した。と同時に、その頃の私を 感動させる要素は全部揃っていることが分った。馬車に乗り合わせるいろいろの階層の人間たちのうちで、「脂肪の塊」と
アダ名される娼婦が一番人間らしい。私の娼婦好みは、すでにこの頃にはじまっているのに、今回あらためて気付いた。
『石膏色と赤』より
■ 湿気
感覚的な湿り気が嫌いな吉行さんだが、湿気自体も苦手であった。
というのは、やはりゼンソク体質だったから。
自宅にいながら どうも体調が悪いと思ったら、その家は沼地だった土地に建てたもので必然的に湿気が多かった、という話もあるくらい 敏感だったようである。
もちろん、梅雨の間の湿気も苦手であった。
だったら海外脱出を図ればいいのでは、という意見もあったが、「日本人なので」 という理由で海外生活は念頭になかった。
■ 島尾敏雄
24歳の吉行さんが熱狂した作家。
『単独旅行者』を読んだ吉行さんは、「そんなことまで書いてしまってもいいものか」(『私の文学放浪』)と思いながら、 新作を待ちかねる状態となる。
吉行さんに「失敗作さえ、私には強い魅力だった」(『私の文学放浪』)と 言わせているほどなので、その情熱ぶりは想像にかたくない。
『贋学生』を山手線に乗りながら読みふけったとも言っている。
その後、親しく付き合うようになるのだが、それについてはまた後日。
■ 〆切り
編集者の仕事をしたことがあるため、〆切りにはうるさかった吉行さん。
1週間前に書き上げることなど当り前で、遅くとも 2~3日前には原稿を渡していたという。
■ 写真
吉行さんは写真を撮るのも撮られるのも嫌いだった。
その原因は幼少時代にあるのかもしれない。
有名人の父母を持つ吉行少年は、 小学校から帰ってきて屋根に登っていた。
すると、マスコミがエイスケの取材に来た。
家族写真を撮ることになったので、 エイスケが下から降りてこいと怒鳴る。
このままでは屋根からひきずり降ろされる!という危険を感じた吉行少年は、しぶしぶ 写真撮影をする。
どうも、このあたりに写真嫌いの原因があるようだ。
戦後になってからは、カメラを持ったこともないというから徹底している。
保存しておきたいような情景に出会ったときは、頭の中でシャッターの音がなり、その情景がインプットされる。
もしインプット されずに思い出せないようであれば、それは大したものではないのだ、というのが吉行さんの考え。
■ 驟雨
1954年に発表し芥川賞を受賞した作品。
『ぼく(さんずいに墨)東綺譚』から思いついたと言われたらしいが、吉行さん自身は、深層心理はともかくそうではない と言っている。
28年に『衛生的な散歩』という題名で書いた滑稽小説(短篇)だったが、ボツになった。
それを「正攻法で書き直し」たのが 『驟雨』である。
12月初旬に清瀬病院に入院し、中旬に『驟雨』が完成、翌年の「文学界」に掲載され、その翌日に手術、 そしてその半年後に芥川賞を受賞している。
■ 週刊誌小説
吉行さんが執筆した初めての週刊誌小説は、1959年3月「週刊現代」に連載された『すれすれ』。
「週刊サンケイ」 1960年『浮気のすすめ』35回、1961年2月『コールガール』45回
「週刊現代」 1962年『雨か日和か(鼠小僧次郎吉)』20回
「週刊朝日」 1963年『夜の噂』34回、1968年『堀部安兵衛』8回
「週刊文春」 1964年『痴語のすすめ』12回、1966年『美少女』31回
「週刊読売」 1965年『唇と歯』39回、1969年『小野小町』4回、1970年『面白半分対談』20回、1975年『新・面白半分対談』20回、
1976年『吉行淳之介の電話速談』25回、1986年『日日すれすれ』50回
「週刊アサヒ芸能」 1965年『対談 人間再発見』199回
「週刊明星」 1970年『裸の匂い』29回
「週刊宝石」1985年『あの道この道』48回
■ 宗教
吉行さんが無宗教であったのは言うまでもない。
葬儀も遺志で無宗教で行われた。
この無宗教観に似た考えを持った友人は、 阿川弘之氏であろうか。
吉行さんは、21世紀には「無宗教」に向かうと断言している。
■ 柔軟性
ある事柄を一つの角度でしか見られないのは、頭脳の柔軟性を失っていることで、これは近年自分でも十分注意している。
『石膏色と赤』より
■ 手術
吉行さんは、人生で何度の手術をしたのだろう。
戦争中に、横根が腫れたといって手術を受けている。
1954年1月、左肺区域切除の手術を清瀬病院で受けている。
昭和22年、京大病院にて顎の両側を切開、頚動脈球を除去。
この手術は効果がないとされ、現在は行われていないらしい。
上膊部の表皮をとって、それを一昼夜冷蔵庫に入れておき、また元のところに貼るという手術。効果なし。
採血し、それを一昼夜冷蔵庫に入れておき、筋肉注射する。効果なし。
効いたと思うのは、金コロイドを注射するというもの。
その後も、脂肪の塊の除去手術や、白内障の手術なども経験している。
いずれ、表にまとめたい。
■ 純粋
「純粋」とか「純潔」とか「純情」とかいう言葉くらい、嫌いなものはない。どれもこれも胡散くさいにおいを、 ぷんぷんと放っている。
『軽薄のすすめ』より
私は「孤独」という文字からは、一種の甘ったれを感じ、「純粋」という文字からはいかがわしさを感じる。 この文字も、まともには使っていないはずだが、精しく調べれば見付かるかもしれないので、断言はできない。
『樹に千びきの毛蟲』より
■ 正月
昭和20年代はあまりの忙しさだったため、年末には気がゆるんで必ず風邪など病気になって、苦しみながら新年を 迎えたそうである。
住居をかまえてからの吉行家の正月は、毎年おなじスタイルで行われていたという。
そのスタイルとは、以下のとおり。
現在、私のところの大晦日はそのまま新年の行事も兼ねている。午前零時を過ぎると、すぐに私はパジャマのまま茶の間へ行く。
原稿を送るための茶色い封筒に手ごろの額の金銭を入れて袋の口をホチキスでとめ、表にボールペンで「お年玉」と書く。 その大きな封筒を持って茶の間へ行き手伝いの人に渡すと、当方の気質を飲みこんでいる相手は面白がっている。
雑煮を食べて、眠る。以来三ガ日は、パジャマ姿のままである。新年の挨拶にも出かけないし、来客も一人もいない。
『石膏色と赤』より
■ 娼婦
吉行文学の重要キーワードのひとつ。
後日、きちんとまとめたい。
■ 職業
私は小説化であるが、文化人ではない。だから、小説以外のものはなるべく近寄らない。評論も書かない(いや、 書けない)。随筆も書きたくないし、多数の読者を満足させなくてはいけない雑誌の小説も、本当は引受けてはいけない
のだが、これをしないと生計が立たない(しかし、この問題もいまいろいろ対策を考えている)。
講演もテレビ出演も苦手なので近寄らないが、さりとて小説だけ書いていてよいものではない。そこが、職業に 付随してくる辛さである。「対談の名手」とか宣伝文句に使われることもあるが、本当は対談もあまり好きではない。 文字を書かなくてはいけない義理を対談をすることで代用している場合が多い。一年に百枚くらい小説を書いて
生計が立てば理想的だが、職業と名がつけばそんなラクなことで済むわけがなく、それでは世間の人に申しわけないと おもい定めて、いろいろ辛い仕事も引受けている。
『樹に千びきの毛蟲』より
■ 処女作
さらに、大作家は処女作に帰る、という言い方もあるが、この作品(注:『瘋癲老人日記』)はその言葉に
当て嵌るものかもしれない。大きくえ円環を描いて処女作に戻ったときその作品は、質の違うものになることは勿論であるが。
『街角の煙草屋までの旅』より
そういう吉行さんの処女作は『薔薇販売人』。
すべての可能性と質がつまっていると本人が言っている。
■ 女性蔑視と女性崇拝
吉行さんいわく、「女性蔑視と女性崇拝とは一つの面の裏表」。
このふたつは、女性と理解しあうことをアキラメた男が とる最後の手段だとか。
現代においても、女性からは批難ゴウゴウの意見でしょう。
■ ジョン・ベスター
『暗室』が講談社インターナショナルより英訳での出版されたときの訳者、イギリス人。
発音は日本人と思うくらい美しく、された質問の内容も日本語のニュアンスなどではなく、作品の曖昧な箇所についてで、
その部分は「論理の組み立ての不手際によって出てきて」おり、結果、吉行さんは2頁分と少しの削除箇所を申し入れたという。
思わず笑ってしまったというから、ベスター氏の人柄と質問の質の良さがうかがえよう。
■ 視力
視力が良かった吉行さん、両目とも1.5くらいはあったようだ。
ならば老眼が早いのかというと、そうでもなかったらしい。
白内障になるまでは、1.0は保っていたようだ。
■ 神経
吉行文学の重要キーワードのひとつ。
後日、きちんとまとめたい。(またか!)
■ 紳士
吉行文学の重要キーワードのひとつ。
後日、きちんとまとめたい。(またなのか!)
■ 新思潮
1947年、吉行さんは第14次新思潮の創刊と同時に同人となった。
22年9月の第2号に『星の降る夜の物語』が掲載されている。
嶋中鵬ニ氏、中井英夫氏らがいる。
自然主義的リアリズムが浸透していて、吉行さんは異色であり、「熱心になれなかった」(『私の文学放浪』)と言っている。
吉行さんの作品が掲載されるときも、同人の大多数が反対だったようだ。
「編集長格の中井英夫と黒幕的存在の嶋中鵬ニの二人だけが 賛成で、辛うじて活字になった」(『私の文学放浪』)といい、特に、中井英夫氏がいたから新思潮から離れなかったという。
ちなみに、この『星の降る夜の物語』は、後年の『砂の上の植物群』の原型となっている。
■ 真実
『薔薇販売人』を初めて掲載した雑誌。
この作品の後、編集部から100枚の作品を依頼された吉行さんは半年ほどかけて作品を仕上げたが、仕上がったときに廃刊になった。
しかし、吉行さんはこのことを嘆いておらず、「むしろ百枚の作品を自分が持ったということの喜びのほうが大きかった」 (『私の文学放浪』)と言っており、この作品が、あの『原色の街』であった。
また、吉行さんのことばに、「真実と事実とは、もちろん違う」というものがある。
■ 新宿
吉行さんの庭のひとつ。新宿が子供の街になる前の、吉行さんが30~40代の頃の話だろうか。
スポーツセンターというゲームセンターで 射撃をしたり、バーに行ったり、もちろん二丁目にも行ったり。
■ 新太陽社
吉行さんが23歳のとき、大学に行くのを辞めて入った会社。
アルバイトの編集者として入社し、以後、6年間は記者として 精力的に働いた。
その間、作品は1年に1つのペースで書いていたという。
その作業は、体の中にたまった滓を吐き出す作業に似ていた、と言っていて、 関心は文学というより編集への方向に向いていたといえよう。
吉行さんはハードな記者生活をおくるために借金をして京大病院に入院し、ゼンソク治療のための手術を受けている。
その入院生活中にも会社から仕事の連絡が入り、熱や痛みを抱えたままインタビューを取りに行ったり、原稿を書いたりしている。
吉行さんいわく、当時の仕事の内容は編集者というよりトップ屋の性格が強いもの。
この期間は吉行さんにとって、作家としての雌伏の期間ではなく、人間形成において大切な時期であり、と同時に 「作家としての私の土壌に、十分な肥料をそそぎこんだ」(『私の文学放浪』)時期といえよう。
ちなみに、正式に入社してからは収入が半減したとか。がっかりしたという。
■ 身長
吉行さん自身の記述によると170cm(172cm説も有り)だったらしい。
1924年生まれの男子の平均身長(20歳時)が 約160cmだったというから、やはり高い方か。
■ 新聞小説
1960年5月、初めての新聞小説『街の底で』が「東京新聞」の夕刊に連載された。
250回で完結。
「内外タイムス」 1960年8月『娼婦と私』 45回
「中国新聞」 1963年1月『赤と紫(女の決闘)』23回
「東京新聞」夕刊 1964年『私の文学放浪』50回
「朝日新聞」
「スポーツニッポン」 1967年『女の動物園(牝らいおんと豹)』 181回
「毎日新聞」 1969年『浅い夢』284回、1976年『吉行淳之介の麻雀好日』53回
「夕刊フジ」 1973年『すすめすすめ勝手にすすめ(贋食物誌)』100回
「日本経済新聞」 1975年夕刊『恐ろしい場所』190回