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■ 第三の新人
吉行さんをはじめ、安岡章太郎氏、遠藤周作氏、三浦朱門氏、近藤啓太郎氏らの呼称。
当時は「三流」「三枚目」「第三国」「三文作家」などに共通する「三」からの呼び名で、蔑称に近いものがあったという。
昭和27年度に名前が出た新人について、山本健吉氏が「文学界」で批評したのがきっかけ。
ちなみに、その評の中に安岡章太郎氏や 三浦朱門氏の名前はなかった。
■ 体重
吉行さんの体重は著書によると59kg~60kg。
痩せたときは、結核の手術後であろう、50kg以下にまで落ちたこともあった。
鬱のときは1年のうちに10kgの幅で増減したとか。
戦後の栄養失調の頃は痩せていたであろうから想像に難くないが、 太った吉行さんというのは・・・。
しかも、原因が毎日煎餅1袋をたいらげたから、というのは・・・。
ちょっと、いえ、かなり想像しにくいですね。
きっと、60kgが50kgに、そしてまた60kgに、を 繰り返していたのでしょう。
■ 対談
「対談の名手」と呼ばれるほどの腕前。
相手が吉行さんだと、言いたくないこともついつるりと話してしまうという人が多かった。
北杜夫氏にいたっては、絶対に話さないと 決めていた性についてペラペラと話してしまいすっかり後悔していたほど。
対談の極意は、相手との距離を測り、相手の反応によって話題を選んで小出しにしていくところ。
オチも念頭にさりげなく置き、すっきりした終わり方でしめる。
観察と頭の回転のよさが鍵となれば、吉行さんが得意なのは当然ですな。
とはいえ本人は、対談は苦手ではないが好きではないらしく、不義理をしている埋め合わせ、 世話になったことのある出版社に対して断れるけれど断れないという状態、または生計のために
こなしている感が強かったそうだ。
■ 体力
疲れすぎると、花の香りなどどうでもよくなる。微妙な愉しみを享受するのは、教養より体力のほうが必要ではないか。もっとも、体力も有りすぎると、微妙さを取り逃がす場合も起こるかもしれない。
『樹に千びきの毛蟲』より
■ 高見順
1963年頃、山の上ホテルを利用していた高見順氏と、同じく月の半分はそこに泊まっていたという吉行さんの接点は何か。
同居人である宮城まり子氏と高見氏が親しい間柄だったため、宮城氏に同行し、鎌倉の家をたずねたこともあったという。
著書では「牛にひかれて善光寺」といっている。
高見氏が欲しがった薬(睡眠薬)を求めて、夜、吉行さんの運転する車で街中を走ったエピソードも有名。
といっても、 高見氏とは神経のあり方が似ていたので、あまり近すぎる付き合いは避け、淡い付き合いを心掛けていた。
■ タクシー
タクシーに乗るのは、動く密室の中で運転手と二人だけになることでもある。一時的にだが、人間関係ができ上がる。
私の場合は、どちらかというと運転手にたいして怯え気味で、友好関係を保ったまま目的地に着きたいとおもっている。 いろいろ気を使って、かなり疲れる。
『日日すれすれ』より
そんな吉行さんがタクシーに乗るとき気をつけていたことがある。
それは、近距離での移動では駅やホテルの前にとまって 客待ちしているタクシーは使わないことだった。
彼らは、遠距離の客を期待しているからである。
が、いつしか平常心でタクシーに乗れるように変化したという。
なぜか?
ちょっとしたキッカケでふっきれたそうだ。
しかし、いろんな運転手がいる。それは当り前のことだ。それにたいして、いちいち相手の気持を推し量っていては、 こちらの身が保たない。ぼんやりと気楽な気分でいることが肝心なのだ、とそのとき悟った。(中略)
ぼんやりと気楽な気分・・・・・・、多少は投げやりなき分ということになるのだが、とにかく平静な気持が保てるように なってきた
『日日すれすれ』より
どうやら、あらゆるタクシーの運転手は、定期的におそろしい目に遭っているようである。
これに気付いてから、タクシーに乗ったとき、しばらくして声をかけておくことにしている。
「今日はひどく寒いね」
とか、
「雪にならないといいんだが」
とか、挨拶がわりの短い言葉を言う。
声音とか言葉の調子で、危険な客ではないことを報らせるわけだ(私にはそういう必要はないとおもうのだが)。
『日日すれすれ』より
■ 太宰治
吉行さんの作品に太宰治の言葉がある。
書いた当時は気がつかなくて、後年になって気付いた、という。
太宰の模倣に偏るのを防ぐため、太宰に近寄るのを見送った、とも言っている。
熱狂するにしても反発するにしても、太宰は一度はかかずらわなくてはすまぬ作家のようだ。そのくせ、太宰を愛読したことを 告白することには、ある恥ずかしさが伴う。後年、私が太宰の全集を購入しはじめたとき、安岡章太郎が私の書棚を見て、
「そうか、それならおれも買うことにしようか」と言ったのを覚えている。
これは、太宰が感受性の恥部そのものだったばかりでなく、その恥部を示す身振りにいくぶんの面映さを起こさせるものが あったため、と私は考えている。
『私の文学放浪』より
この太宰治という作家、熱中したり愛読するのは、ほとんどが男性であるといっても過言ではない。
■ ダダ
吉行さんは、倉橋由美子氏と大江健三郎氏を「ダダの季節にいる芸術家」と評している。
吉行さん自身、自分の勉強になるから、と日本大学で1年間ダダについての講師を引き受けている。
その吉行さんがダダ的な 行動をしめしたのは、『原色の街』を書いたときであろう。
吉行さんいわく、
善と悪、美と醜についての世の中の考え方にたいして、破壊的な心持でこの作品を書いた。いわば、私はダダであったと いってよい。
『私の文学放浪』より
しかし、ダダが自らの文章をも破壊していることには賛成できず、修飾語の少ない、腐らない、透明な文を書こうという心掛けを とおした吉行さんであった。
■ 卓球
吉行さんが中学校のときに所属していたクラブが卓球部だった。
思いのほか上手で、大会にまで出たとか。
旧制高校のときには、卓球部に入って、一年生のときレギュラーになった。東日本インター・ハイで団体優勝をしたとき、 ウイニング・ボールのスマッシュをきめた選手は、私である。
『樹に千びきの毛蟲』より
とはいっても、旅館で浴衣の裾をヒラヒラさせながら汗だくで卓球!そしてビール!ということはなさそうですね。
■ 田中冬二
詩人。
新太陽社に天下りでやってきたときから交友がある。
その前から好きな詩人であった。
理由は、以下のとおり。
その詩は日本固有の風物を捉えてきて、それを珠玉の作品に定着させていた。それは、日本浪曼派風の構えとも無縁だった。
わが国の伝統につながっている生活や風物というと、地方のものということが多いが、それが土俗的でない感性で処理されている ところが快かった。ただ、あの殺伐な時代に田中冬二の詩を読むと、平和だった時代が懐しくなって心が痛むので、おもわず本を 伏せたことが何度もあった。
『犬を育てた猫』より
■ 煙草
吉行さんは、原稿を書いているときと、人と会っているときと、酒を飲んでいるときは、やたらと煙草を吸う癖があったという。
とくに酒場では、次から次へと煙草に火をつけていたらしい。
あまりに灰を落とすので、「灰神楽の三太郎」にちなんで 「灰カグラの吉行」というアダ名をつけられたほどだったとか。
また、どこへでも灰を落として歩く癖があるらしく、 友人宅へ行っても同様でたびたび叱られたりも。
灰の落とし方や灰皿に残った吸殻で、その人物の性格がわかったりするから面白い、とも言っている。
煙草は、自室の戸棚に2カートンほどストックがあり、銘柄はハイライトであった。
ちなみに、買ったものではなくすべてパチンコの 景品。
定価よりも少し安く買っているという計算になるらしい(さすが)。
■ 多忙
常に病気を飼い馴らして生活をしていた吉行さんは、多忙な生活をもコントロールしていたようだ。
作品にも、多忙は影響しているという。
多忙を極めた時期に、かえって私の本筋の仕事を沢山している、という不思議な相関関係については、あらためて
考えてみたいとおもう。
『街角の煙草屋までの旅』より
■ 誕生日
戸籍上の誕生日は4月1日。
実際には4月13日に生まれたという話であるが、父・エイスケが少しでも早く学校に入れた方がいいという信念のもとに 誕生日を変更、4月1日のエイプリル・フールに設定した。
吉行さんはこの変更について「この誕生日は嘘ですよ、 という父のダンディズムだという気がする」と言っている。
誕生日についてのエピソードの一つに次のようなものが。
僕の友人で、四月一日生まれの男がいる。
そのことを彼は非常に気にしている。なにかの用で、生年月日をきかれると、
「大正×年四月一日」
と、こたえてから、ひどくスマした顔つきになる。密輸品をもって税関をとおる人のような顔つきである。 ちょっと鳥のような、ネズミのような感じの顔である。・・・・・・もちろん、その顔つきの変化は非常に微妙であるから、 大抵の人は気づかずに、
「はァ、そうですか」
といって、それでおしまいである。けれども一度きいただけではなんでも忘れてしまう人がいて、
「大正×年四月の・・・・・・ええと何日でしたっけ?」
と、ききかえされると、その友人は顔が変わる。そして、ジレったそうにいう。
「四月一日」
まるで、やけくそのようである。あるときは、またすこし卑屈な笑いをうかべることもある。・・・・・・しかし、それはまだいい。 その上に、
「ははァ、なるほどエイプリル・フールですな」
といわれたりすると、もう我慢がならない。彼は狼狽の色をつつみきれず、ついには怒りのために口のはたをピリピリ ふるわせたりする。・・・・・・そういうことのあったあとでは、その友人は、ものを頼まれても決して引き受けないし、話を
していても、黙しがちになる。ふだんはことのほか陽気で、シャレや冗談を好み、警句をとばして人をよろこばせるのが 大好きな彼であるが・・・・・・。
一体どうして、こういうことになるのか。永年したしくつき合っている僕にも見当がつかない。あるとき僕は、 なぐさめるように聞いてみた。
「君、四月一日に生まれることは大へんしあわせなことではないか。小学校へ行くときだって、一年トクを するのだし・・・・・・」
「一年ソンをするわけだよ。・・・・・・しかし僕は別にこだわっているわけじゃない。小学校を一年はやく卒業しようが、 おそくなろうが、たいしたことじゃない」
「じゃ、なにが気にいらないんだ。四月馬鹿の日に生まれたって、別に君が嘘つきだということになるわけでもないし、 それに君、エイプリル・フールなんて、わが国じゃ、つい近年に輸入されたばかりで、まだ風俗ともいえないものだ、 そんなことを問題にする方がおかしいよ」
すると、その友人は、しばらく黙って考えこむふうであったが、
「いや、じつはおれを四月一日生まれなんて届けでたのは、おやじのダンディズムらしいな。実際におれが、その日に 生まれがかどうかも怪しいものなんだ。どうもおれは三月の二十七日か八日に生まれているらしい・・・・・・」
「それで・・・・・・」
「それで、つまりおれは四月一日なんかに生まれたんじゃないと思うといっているんだよ」
僕はその説明をきくと、ますます彼の気持を納得できなくなって。それでは、やっぱり彼は「四月一日」を非常に 気にして、それを打ち消すために、お父さんまで動員しているとしか思えないからである。そういうことでは、この A君(と仮にしておこう)の四月一日コンプレックスをなおすのは容易なことではあるまい。もとはだれでも自分が笑うことは
好きでも、自分が笑われることは嫌いなのだなァと感慨にふけっていると、いきなりA君は、
「君は信用しないのか。だからいやになるんだよ」
という。 「そんなことはないさ。だた僕は君がどうして、そんなツマらないことにこだわっているかを考えただけだよ」
「ツマランことにこだわっているのは君の方さ。ひとが何月何日に生まれようと、それが君になんの関係があるのだ」
「いや関係はある。僕は君の友人だからね」
僕は思わず真面目な顔つきになっていった。すると、A君は、
「いや、君は僕の友人なんかではない。君は僕の四月一日生まれであることを願っているのだろう。そうであるかぎり 君は僕の友人なんかではない」
と、からんでくる。まさに、それは絶好宣言をつきつけられかねないありさまだったから、僕は大急ぎで、口実をもうけて 退去してきた。
安岡章太郎 『とちりの虫』 「誕生日」より引用
この文はもう少し続くのだが、あまりに引用が長すぎるのでこのくらいで。
上の文章は、改変なく引用しないと伝わらない或るニュアンスが漂うと考えたので、あえて引用させていただきました。
しばらくして、安岡氏が、ほとぼりがさめたであろうから遊びにでも行こう、と思っていると、吉行さんからの電話が。
安岡氏に悪意がないのが分かったし、自分も誕生日にこだわらないためのある治療法を考えた、という。
数日後、一枚の葉書が 安岡宅へ舞い込む。
それは、ある場所で誕生日の日に食事会をする、という案内であった。
安岡氏は、何を持って行こうかと嬉しそうに悩んでいる様子であったという。
こんな風に、自分の誕生日が曖昧なせいか、ことさらに騒ぎ立てることが嫌いなせいか、誕生日パーティーを開いたり、 祝ったりということはしなかったとか。
いやはや、貴重な誕生日食事会であった。
■ 短篇
吉行さんの場合、「短編」ではなく「短篇」。
そして、吉行さんは「短篇の名手」という肩書きをも持つ。
■ 暖炉
吉行さん宅のリビングには暖炉がある。
これは、宮城まり子氏の提案で作られたそうである。
吉行さんは、庭で焚き火をして不用になった原稿や手紙を処分することがよくあった。
ある日のこと、吉行さんがいつものように焚き火をしていた。
燃やしていたのが原稿などなら問題なかったのだが、 宮城さんが見たのは「雨の日、傘をさして背広を燃やしていた吉行さん」。
気味が悪くなった宮城さんが、もうそんな姿は 見たくないという思いから、家の中に暖炉を作りましょう、と提案したそうです。